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作 品

MASK

mask

表現者として多様性にこだわる

 時代の風を感じながら生きていきたい。それは私が表現者として常に思っていることです。作風を決めつけず、多様性を大事にしたいと考えています。今ならば、世界が新型コロナウイルス感染症で大きく変化する中で自分は何を感じているのか。それを突き詰め、植物を通して表現したのが今回の作品です。
 植物の生命力は空間に生気を与え、人の心を動かします。それは今こそ必要で、とても大切なことだと感じています。自然から多くのものをいただいて、私の引き出しをいっぱいにしたい。これからも表現したいことが尽きそうにありません。

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「赤い秋」。緑濃いビワの葉と炎のようなヤリゲイトウで力強い生命力を表現。中心に据えたドラゴンフルーツは、その名から龍の存在として現状に闘い勝つ意味合いを込めた。まず思い浮かんだという陶芸家 金徳姫作の花器の赤との融合も美しい。
花材/ヤリゲイトウ、ビワの葉、ヒペリカム、スモークツリー、ドラゴンフルーツ

初出:『FLOWER DESIGN life』,マミ,No. 630(2020年9月号),pp. 26-27.(撮影/中島清一 取材・文/植田広美 )


生きて行く地球の上で
人智を超えた自然界からのメッセージ
地球の怒りは限界に来ている
植物の多様な生き方に教わる

 地球がグラグラと揺れ動いている。度重なる地球温暖化のツケのような猛暑の夏、豪雨被害。環境破壊の凄まじい近年である。そして、春からやまぬ逢着するコロナ禍の日々…。日本列島だけでは無いパンデミック。本屋では歴史上の疫病とそれに関連した本が所狭しと並んでいる。美術界で、いけばな界で展覧会は閉じ、延期が続いている。特に、学校も各種レッスンも休講続き、数え上げればきりが無い。通年とはあまりに異なる世の様変わり…ハムレットならずとも迷う。人智を超えた自然界からのメッセージを今、我々は受け止め、今後に対応しなければならないのではないか。いかに細やかな日常からであろうとも。地球はその誕生以来、生物に果てしなく豊かな恵みをもたらし続けてきた。しかし、一方的な人類のあまりの傍若無人な振るまいに、地球の怒りは、憤りは、限界寸前なのだ、と感じる日々である。さて、我々いけばな人は…その歴史500年以上を礎に、そこから多くを学び生き続けてきた。生命は養分とするもの無しで延命は難しい。では、いけばなは斯くも長きにわたり、何故、生き続けられたのか? 思うに幾多の歴史的荒波に遭遇しつつもそれを乗り越え、変わらぬ美の芯のようなものが次の時代へと受け継がれたのではないか。それは植物から感受した表現が生けた空間に生気をもたらし、時にその生気は哲学的あるいは遊行的表現の場合もあるとして、生気の存在感を人は認め、どの時代においても重要とし、必要とされてきた。そして、それを次の時代(未来)に伝え繋いできたのである。植物の表現は短命ではあるものの、表現によって、その命の存在が顕現化される。時に、見る人(体感する人)の魂に届く。儚さと普遍性が共存している。時代によって、組織としての繁栄、消滅の歴史であってさえも、それを越え存続してきた。このしたたかさを大事に、意義を見い出さずにはいられない。 いけばなに限らず植物はいたるところで我々に命の素晴らしさを教えてくれる。所謂、雑草と呼ばれている植物…太陽の下、道端の何処でもタンポポ、エノコロ草、空地のフェンスにへばりついて咲くヒメジョオン、カラスノエンドウetc.。咲いた後の種飛ばし、そして、未来に着地。風情の世界のみならず植物の多様な生き方に教わることは多い。炎天のこの夏、声高に鳴く蝉、止まっているのは一本の桜の古木。幹から沢山の若い芽が、小枝が吹き出している。ごわついた膚の根本からも新しい枝が…古木が養っているのである。いずれこの傾斜した老木は世を去るだろう。しかし、根本や胴体には既に未来が生気づいている。通りがかりの我々にとっては、人生を示唆する存在となっている。植物と対峙して表現する我々にとって、自然界のいたるところに、その気付きを促す展開が溢れている。しかし、今年ほど地球をはじめ自然界の変貌ぶりを痛感させられた年は無かった。時代を見据えて行動していきたいものである。多様な展開は必至として、その内容も当然ながら、各々が開拓し、進めていくことが大事である。御膳立てを誰かにしてもらわない。いきなり新風に入れ替える必要も無い。歴史をベースに、未来への持続可能性を考えて生き抜く。自然界への畏敬の念を底に、越境あり、で行きたい。揺れ動く地球の上で。

初出:『日本女性新聞』,日本女性新聞社,第2313号(2020年10月1日),p. 2.

個 展

〈供華・捧げる花 2019〉

2019.4.22-5.4@巷房
供華2019 1
供華2019 2
供華2019 3

供華・捧げる花 2019

古色蒼然とした建物には、そこを棲家とする生きものが棲み付いている。ずうっと以前には幼なかった生命も、時が過ぎ、人々が往き交う歴史を過ごしている内に、それは太古から命の種を宿していたかと思われる程、巨大に成長してゆく。グリーンランド深海のニシオンデンザメ(英名:Greenland Shark)の平均寿命は推定で270年を超えるとか(個体のメスで392歳)。彼等の祖先がこの地球に生を受けたのは、更に遥か遠い昔...。
一方、銀座の此処は以前、水が流れている場所だった。ひょっとしたら、その頃は様々な魚族の類が泳ぎ、生きていたのでは....。季節はまもなく5月、そのような物語を夢想し、一匹の鯉のような面影を求めて、泳がせてみたい。できれば、風も味方になって欲しい。
しばし、お立ち寄りいただき、この水底を棲家としていたかも知れない過ぎし日の魚族の御霊に捧げる花をご覧いただければ幸いです。

〈追記〉
2006年、新潟「越後妻有トリエンナーレ」でコスモスを全身に咲かせた鯉のインスタレーションを出品。
場所は新潟地震で被災した小白倉村。壊れた鯉の生け簀を土台に盛り土、種を蒔き、花を咲かせた(作品集「愛するいけ花」に掲載)。
破壊で生け簀の鯉は全滅、損傷のひどい現場に立つと、胸に込み上げてくるものがあった。
作品の頭部は東に向け、祈りを込めた。あの日から鯉は忘れられない存在となった。
それはとりもなおさず、捧げる花・供華として、その後の表現につながっている。

2019.まもなく5月
いけばな作家谷口雅邦


〈捧げる花・旅立ち〉

2018.2.28@女子美術大学杉並キャンパス
南嶌イズム

〈南嶌イズム―女子美術大学における南嶌宏教授の教育と軌跡〉に於ける企画に出品。


〈供華〉

2016.11.7-19@巷房
供華1
供華2
供華3
供華4
供華5

捧げる花

我々人間のDNAにはすでに花は捧げるものというひとつの世界が埋め込まれている。
沢山の花々、一輪の花に関わらず、美しいと感じた時には神仏にそれを捧じ、供え、あるいは誰かに手渡し、そして感謝の気持ちや相手の幸せを願う。
捧げる花の根源を探ると、遡ること六万年前、イラクのシャニダール遺跡では、ネアンデルタール人が死者に花を供えたと考えられる証拠として、人骨の上半身周辺に何種類もの花の花粉が見つかっている。
また、それらの植物は今も遺跡周辺に見られ、季節が来ると咲く花の花粉であることがわかっている。死者を悼む為に美しい花々を捧げるという生命観が伝わってくる。
翻って、五百数十年にわたる生け花の歴史は、様々の時代を経て、現代に息づいている。
古来、生け花のルーツは、依代、供華にあった。時に哲学的に、あるいは遊行のひとつとして、時代と並走しながら、現代に繋がっている。その表現も多様化している。
その柔軟ともいえる動きが長命の歴史を刻むことに……。そしてそれに続く現代における生け花は、表層的変化だけに流れていないか?
生け花のルーツに繋がる行為、表現を改めて試みてみたい。
地下に浄化の花。階上には高次元の存在を思い棒じつつ花を活けさせて頂く。
幸福への進化を願いつつ。

2016.11.吉日  谷口 雅邦


〈膜の合間〉

2013.4.29-5.11@巷房
森田拾史郎(写真家)&谷口雅邦(いけ花作家) 膜の合間1
膜の合間2
膜の合間3
膜の合間4
膜の合間5

「膜の合間」展に寄せて

2013,04,吉日
皆様、ご多忙中のご来場、心より感謝申し上げます。
さて、タイトルの『膜』の文字は生物学用語の細胞膜。
意味としては、細胞質の最外層にあって細胞の形態をきめるきわめて薄い膜。
主に脂質とタンパク質から成り、選択的透過や代謝物質の輸送、電気的興奮性、免疫特性の発想などの機能をもつ。原形質膜。(三省堂・大辞林)
辞書に於いては上記の内容を持つ膜は生物の命を構成する大事な存在である。
その膜の役目に仮託した表現は可能なのか?進めてみることにした。 出品する2人は殆ど唐突な組み合わせであった。
コラボレーションになるのか?
はたまた、分離状態のまま、同空間内で別居棲息となるのか?
各々がどういう展開をするのか、手探りをしながらのこととなり、3階、地下とひとつひとつの空間を共有する協働作品を試る。
森田拾史郎は長い間舞台写真家として、国立劇場、歌舞伎座、能楽堂等で演者を撮り続けて来た。
現在は上記のみならず、演出、大学での講義も仕事としている。そして、今回はモノトーンで石仏の写真である。
谷口雅邦はいけ花作家を軸としながら、大学で教鞭を執っている。同ギャラリーでの出品は3度目となるが過去2度は個展であった(2007,09「呼吸する赤」、2009.11 「天使の実」)。今回は綿の種・ガーゼを主材にした床での表現である。
上記の二人は日本の伝統的世界を表現の場とした出発ではあったが現在では表現の展開が多様となっている。(展示中、両者の作品集あり。)
今展でどのような表現で空間を変えるのか…。各々の細胞が持つ「障の合間」から希望の種のようなものが発信できたらと願う。

出品者より


〈ピンクリボン女子美アート作品展 2012〉

2012.9.28-10.9@コニカミノルタプラザ ギャラリーC
天使の実

天使の実―ピンクリボン展によせて

女子美術大学・大学院・女子美術大学短期大学部の学生がピンクリボン運動への思いをこめて自由に創作した芸術作品を展示する会場に、全面に綿の種を付けたピンクの布と脚立でインスタレーション。


論 文

谷口雅邦: 「いけばな」に於ける「飾る」,「活ける」の言語と行為に関する考察. 了德寺大学研究紀要, vol.5, pp.33-41, 2011.
Gaho TANIGUCHI: Thoughts on the Notions of “kazaru”(to decorate with) and “Ikeru”(to give life to) in Presenting Ikebana.

要旨
日本の伝統的芸術である「いけばな」の使用言語「いける」,「飾る」の言語と行為について,この分野に携わる何らかの表現する世界(実作,文章,話し言葉等)に関わってきた人々の中では,その意味性に於いて曖昧のまま使用され続けている.そこに於ける問題点は何かを関係資料や実作者体験から考察し,今後のいけばなする言語と行為について再考する.また,この考察が従来のいけばなに関わる人々に何らかの示唆的役目を果たす内容として記述する.

Abstract
In the traditional Japanese art of ikebana, two terms, “Ikeru” and “kazaru” have frequently been used. However, when looking at the actual artwork, and written and verbal comments, it is apparent that the usage of these terms continues to be somewhat vague. By referring to related materials and the experiences of actul artists, I would like to clarify the problems related to these two terms and therefore reconsider the direction of ikebana into the future. Through this reconsideration, I would like to provide some suggestions for the people related to ikebana and its criticism.


インタビュー



2021 © Gaho TANIGUCHI